ウォン・カーウァイ - 迷走する森林
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ウォン・カーウァイは、いうまでもなく商業的に成功した映画監督とはいえない。しかし、商業監督としての成功が彼に必要なことだともいえない。ウォンが中国語圏にモードを作りだし、ファッションをリードし、「ウォン・カーウァイ神話」を築き上げた事実だけは揺るぎない。いわば、彼は映画界の悪戯っ子といっていいだろう。それも、根気がないという意味ではなく、様々な柵(しがらみ)に束縛されていないという意味において。彼は、香港映画の監督たちの中で唯一、自由な王国に入った先駆的な芸術家だ。
1958年7月17日、ウォン・カーウァイは上海に生まれた。5歳の時に、家族と香港へ移住し、1980年、香港理工学院美術設計科を卒業した。翌年には、無線テレビ第一期育成訓練クラスに入った。ウォン・カーウァイは少年時代から文学にとても関心をもち、映画業界に入るために大量のシナリオを書いたことはよく知られている。80年代だけでも50本以上のシナリオを完成させた。そのうち『最後の勝利』では、第7回香港映画シナリオ・ライターにノミネートされた。ウォン・カーウァイは、特殊場面の設定に精通しており、例えば、やや長めの台詞から、登場人物の習慣や内面を鮮明に作りだすのが得意だ。
1988年、ウォン・カーウァイの監督デビュー作『いますぐ抱きしめたい』は、第8回香港映画アカデミーの美術指導賞を獲得した。この映画は、実際に起こった事件に材料を求め、一人の少年が闇社会の指示によって人を殺した悲劇である。ウォン・カーウァイの才能の魅力は、この処女作から輝きはじめた。ウォン・カーウァイと彼の映画に対し、他の映画監督とその作品からは決してみることのできないものを我々は感じ取る。もっとも、ウォン・カーウァイがある形式を確立しつつも、いまだ他監督の作品と明確に比べることができないのだが、少なくとも、ウォンが映画界の中に独特の地位を獲得したとは確かだ。ウォン・カーウァイの映画は、観客に対して、これまでの映画の価値観を揺るがせる。逆に、観客に動揺をもたらす映画はいい映画だともいえる。
ウォン・カーウァイの映画は虚無の映画である
ウォン・カーウァイの映画の中には虚無感が漂っている。時間と空間がすべて「確定されない」まま(ウォン・カーウァイは日本の作家村上春樹と同様、時間と数字に敏感ではあるが)、未来を把握できず過去の記憶もぼんやりしている。あらゆる悲観的な思いが彼の映画から常に映し出されてくる。ウォン・カーウァイは鈍い天才とでもいうべきか。
ウォン・カーウァイ監督の二作目『欲望の翼』(原題:阿飛正傳)は相当に熟した作品だ。彼は自分の目で始めてこの世界を正視した。しかも自ら観察した事を少しも留保せずにそのまま映画に表現した。『欲望の翼』ではヨディ(阿飛)が上海からの移民として登場している。育ての母親がアメリカに移住するのを決心したことをきっかけに、ヨディは生みの母親を探すためにフィリピンへ向かう。
青年の警官は、船員の放浪生活だけに憧れている。サッカー場のチケット売り場で働くスー・リーチェン(蘇麗珍)は香港とマカオの間を頭の中だけで行ったり来たりしている。香港の踊り子ミミは、不安で落ち着かない日々を過ごしている。このような場面設定は、60年代の個人的な物語に属するものとはいえ、香港人が祖国に帰還する前の心境をも正確に描いている。このような状況の中では、記憶が過去を引っ張り続け、希望が未来と繋がっている。仕方なく香港と離れた人々や、生活のために香港に残された最下層の人々たちは、未知の未来を目前にしている点で同じ立場にある。ウォン・カーウァイは、60年代の青年たちの喪失感を映画の中で正確に語っている。
青色をした夢の中で、一匹の脚のない鳥が空を飛び続けている。その鳥は、一生のうちにたった一度だけ着陸することができる。それは死ぬ時だ。この脚のない鳥の物語は、この香港という街についての寓言(アレゴリー)ともいえる。どこから来たの? どこへ行くの? これはとても難しい問題だ。この脚のない鳥の悲劇は、記憶と期待を同時に手に入れることができないことにある。一つに目を向ければ、必ず片方を失ってしまう。忘れるか諦めるか、そして、死ねば漂流を止めることはできる。記憶をなくすには死を選ぶしかない。ウォン・カーウァイが脚のない鳥を選ぶのは、香港という街とそこに生活している人間たちに強い関心を寄せているからだ。彼はさまざまなことを心配する一方で、人情が厚い。
『楽園の瑕』ではウォン・カーウァイ自身の情感がもっと深く表現されている。ウォンは作品のなかで、みんなの心の中に一生忘れることのできない人がいるという風に、主人公一人一人に愛情を注ぎ、そして、登場人物すべてが、先のない愛や絶望的な愛に縛られている。だから、この映画は忘れることのできない愛情と、忘れることについての物語として展開されている。『いますぐ抱きしめたい』や『欲望の翼』だけでなく、『恋する惑星』や『天使の涙』も含め、ウォンの映画の中には孤独というテーマがへばりついている。『楽園の瑕』も同じで、主人公たちの時代設定が異なるだけだ。
『花様年華』はやや微妙な作品だ。物語の筋は意識的に取り除かれている。映画の中には昔を懐かしむ雰囲気が漂っている。暗い道の照明の下、スー・リーチェン(蘇麗珍)は狭い階段を歩いているところを、主人公の男が正面からやって来た。これが寂しい二人の出会いだった。この映画の中には一種の息がある。この息は中年観客を一つの型にはめ込み、『花様年華』を不倫をテーマとした映画だとして観客に理解されてしまった。しかし、ウォン・カーウァイはとても聡明な監督であって、『花様年華』を単なる不倫映画に陥れることはしていない。彼は登場する人々の行為や言動に関心をもち、時代というものが主人公たちに対してどのような影響を与えているのかに注目している。また、彼らはどのようにして互いの秘密を打ち明け、二人の秘密を守ろうとしたかに焦点を当てている。主人公たちは、いつも拒絶や逃避ばかりしている。拒絶と逃避は、ウォン・カーウァイの映画で重要なテーマの一つだ。自分たちの暮らす社会から完全に飛び出している二人が一体どこに向かっているのか、観客には分からない。そして、ウォン・カーウァイ自身も分かっていない。だからウォンは、多くの場面を延々と続かせ、混ぜ合わせ、曖昧で蔓延的な恋をゆっくりと咲かせることしかできない。
ウォン・カーウァイの映画は自由な映画である
特定しない・曖昧であるという特徴もウォン・カーウァイの作品には頻繁に出てくる。この点も彼の芸術上の出発点の一つだ。ウォン・カーウァイは「弛緩」的な監督で、映画の始めから終わりまで自由な精神を撒き散らしている。多くの俳優が彼と一緒に仕事をしたがっているが、本当に協力するとしたら何をすればいいのかよく判らない。なぜなら撮影する前に固まった脚本が無いからだ。ウォン自身もまた、翌日に何を撮影するのか未定であり、何か変わるかも知れないと思っている。観客は、彼の映画に物語の筋を見ることはない。展開される内容は、綺麗な曲線に沿って走り、豊かに自由に、足の多い蛸のように、完全に開かれた空間の中で事前の約束も気配りもなく自由に広がって泳いでいる。ウォン・カーウァイ映画の勝利とは間違いなく想像力の勝利だ。
映画『恋する惑星』は、『ブエノスアイレス』のように国際レベルで映画界から大きな名誉を貰ったわけではない。しかし、この映画はウォン・カーウァイの作品のなかで最も自由な精神が含まれた映画だ。ある年、ある月、ある日、失恋したばかりの一人の警察官が、重慶マンション内にいる麻薬密売人の女性と出会い、二人は一緒に幸せな夜を過ごした。警察官は自分の悲しみを忘れようとし、新しい人生を始めたいと決心した。しかし、目が覚めたとき女性は彼のポケベルに「誕生日おめでとう」というメッセージを残したまま姿を消していた。まるで雨が雨の中に消えていくように。さらに不思議なことに、彼女は映画の後半に出てくることがない。ウォン・カーウァイは、彼らを完全に忘れたようだ。ウォンは後半で別の警察官のことを語り始め、前半とはまったく別の物語を作り上げた。前半と後半の共通点は、2人目の警察官も失恋したばかりという点だけだ。人と話すのが嫌いなウェイトレスのフェイちゃん(阿菲)が、ふとしたきっかけで彼の生活に入り込んできた・・・。
他の監督たちはウォン・カーウァイのやり方と根本的に違っていて、物事には何でも始めと終わりがあるのだと真面目に語ろうとする。彼らの映画はまさに映画らしい。真剣な態度だし、技術面でも完璧だ。しかし、このような映画は毎日製造されていて同じ顔をしている。しかしそのような作品には『恋する惑星』という穏やかな映画にある「空気」が欠けている。つまり、言葉で伝わってこない声が表現されていないのだ。このような見ることも触れることもできないものが、まさに芸術の中で一番人々に伝わってくる特徴なのに。この特徴は、映画と観客の間に共鳴を生み出し、この共鳴は映画が終わった後も持続するものだ。確かに、ウォン・カーウァイの映画の中には「水増し」や「誇張」の部分もある。しかし、このように指摘するのは悪意があるからではなく、反対に、水増し部分もまた、彼の映画が多くの人々に愛される重要な原因の一つだと強調したい。用心深い監督たちによって作られ特定のパターンに固まった映画は単に凝った映画であって、芸術の王国からはほど遠いものだ。もっとも「水増し」にも前提があって、関係のないものは映画の中に持ってきてはいけないし、監督の断定的な抑制力も必要となるのだが。
